内山書店の歴史

(『季刊 鄔其山』1985年秋号 No.9より)

 

1885年 ( 明治18 ) 
1月11日岡山県後月郡芳井村に、内山完造出生。弟嘉吉は15歳下。

1897年 ( 明治30 )12歳 
秋郷里の高等小学校を退学し大阪の丁稚奉公に出る。以後27歳まで商家の店員として働き、社会の辛酸を体験。

1913年( 大正 2)28歳 

3月下旬、前年に入信した完造は、京都教会牧師牧野虎次の紹介で大学目薬の海外出張員となり上海へ渡航。中国生活の第一歩を開始する。

1916年 ( 大正 5)31歳
井上美喜 (24歳 ) と結婚。上海呉淞路義豊里に間借りの新居を構えるが、すぐに北四川路魏盛里に移転。

1917年 ( 大正 6)32歳
魏盛里の自宅玄関先を利用して、妻美喜が小さな本屋を開く ( 上海内山書店の誕生 ) 。

魯迅に贈った内山完造・みき夫妻の写真
1924年 ( 大正13)39歳
向かい側の空家も購入し本格的な書店となる。この頃から内山書店は在上海・日中文化人のサロンとなり、やがて「文芸漫談会」が生まれ機関誌『万華鏡』を発行する。中国人メンバーは、田漢、欧陽予倩、鄭伯奇らで、のち郭沫若、郁達夫らも参加。完造は"?其山"のペンネームで漫筆を執筆するようになる。

1927年 ( 昭和 2)42歳
円本ブームにより内山書店は急速に発展。10月広東を脱出して上海に移った魯迅と会う。以後両者の聞には深い親交が結ばれる。翌年2月、日本へ亡命する郭沫若を援助。


1929年 ( 昭和 4)44歳
内山書店は北四川路底に進出。また四馬路に支店 (31年閉鎖)を開いた。翌年に大学目薬の仕事をやめる。

1933年夏 魯迅と内山完造
1931年 ( 昭和 6)46歳
1月左連作家虐殺事件生じ、危険の迫った魯迅を庇護。3月来遊した増田渉を魯迅に紹介。因みに内山完造の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にのぼる。8月来遊の弟嘉吉が魯迅の要請で、6日間の版画講習会の講師を勤める。講習会終了後に嘉吉、内山夫妻の養女片山松藻と結婚し帰国。翌年1月第1次上海事変勃発後、魯迅親子・周建人夫妻を庇護するが、日中双方の側から"スパイ"の流言飛ぶ。この頃から、魯迅の著編著などの代理発売元を引き受けるようになった。

1935年 ( 昭和10)50歳

10月10日嘉吉・松藻夫妻、世田谷の祖師谷大蔵に東京内山書店を開店。11月学芸書院より、魯迅の序文を付した完造の処女出版『生ける支那の姿』刊行。

1936年 ( 昭和11 )51歳
10月19日魯迅死去( 行年56歳) 。同日葬儀委員会が編成され、宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も委員に選ばる。同22日万国公墓での埋葬式で、完造は追悼演説を行なった。

1937年 ( 昭和12)52歳
2月改造社版『大魯迅全集』( 全7巻 ) の第1巻刊行。その編集顧問を勤める。3月東京内山書店、神田一橋に移転。7月7日溝橋事件起こり、日中両国は全面戦争にはいる。8月上海での戦火を逃れて、完造夫妻は一時妻の郷里に帰省。9月上京した完造は、郭沫若の日本脱出の件で久松署に4日間検束さる。この頃から日本の新聞雑誌に多くのか"中国漫談"を執筆するようになる。

1938年 ( 昭和13 )53歳

4月心臓病の療養で妻美喜は長崎に赴き、同地で長崎内山書店開店 (41年に閉鎖) 。戦争下に内山書店は発展、上海の各所に支店を聞く。

1941年 ( 昭和16)56歳
12月6日太平洋戦争勃発。同15日魯迅未亡人許広平女史が上海日本憲兵隊本部に連行、その救出に尽力。また上海開明書店支配人章雪村、編集長夏丐尊も日本憲兵隊に逮捕され、救出にあたった。

1942年 ( 昭和17)57歳
対敵資産接収にあった南京路の中米図書公司の管理を委托され、支店として経営。この頃自宅を北四川路横浜路松洞里9号に転居する。

1944年 ( 昭和19)59歳 
1月の横浜事件で閉鎖状態の改造社より、著作の紙型を学芸書院のものと一緒に買いとり、上海で『生ける支那の姿』『上海漫語』などを自家出版し版を重ねる。

1945年 (昭和20)60歳
1月13日内山美喜死去。友人塚本助太郎の発案で比翼塚を静安寺外人墓地に建立 (のち墓所は虹橋の万国公墓に移る)。8月12日日本の無条件降伏を知り、完造は全書店員30余名を集め資産の分配を提案 (国民党の書店接収により実現せず) した。8月15日日本敗戦。上海日僑自治会が結成され、完造は代表委員に選出さる。9月23日上海内山書店閉鎖。10月施高塔路千愛里の別宅に移転。

1946年(昭和21)61歳

4月呉淞路義豊里に転居。完造は中国永住を決め残留日僑互助会を設立。

1947年 ( 昭和22)62歳
義豊里の自宅で古本屋を開業。12月6日国民党武装保安隊が日本人居留地区を包囲、内山完造ら33名に強制帰国命令を下して拘束。同8日帰国船ボゴタ丸で上海を出航し、10日佐世保入港。12日東京内山書店に旅装を解き、中国生活35年に終止符をうつ。

1948年 ( 昭和23)63歳
2月岩波書店小林勇の要請を入れ、長野県高遠で日中友好の"中国漫談"を講演。以後17カ月にわたり、北海道から九州までの"中国漫談全国行脚"を行なう。

1949年 ( 昭和24)64歳
6月日中貿易促進会結成、代表委員となる。10月1日中華人民共和国成立。翌年1月加藤真野と結婚。10月1日日中友好協会設立され、理事長の任に就く。

1950年東京の内山書店前での完造
1951年 ( 昭和26 )66歳
9月の対日平和条約調印にともない日台条約が結ばれ、以後日中関係は戦争未終結・国交未回復が、氷続されることとなる。この間、内山完造は日中友好協会理事長として中国との講和を主張、単独講和反対運動を推進し続ける。翌年米軍情報組織・キャノン機関に拉致監禁された、鹿地亘の救出活動にあたる。

1953年 ( 昭和28 ) 68歳 
1月在華邦人引揚げ打合せ代表団の一員として渡中。3月共同コミュニケ調印され、日本人3万の帰国の道が聞かれる。北京では、許広平女史、郭沫若、田漢、欧陽予倩と再会。この年日本語版『人民中国』、翌年『中国画報』創刊。

1955年(昭和30)70歳

12月中国学術視察団 ( 団長郭沫若 ) 来日し、郭沫若の世話役に専念。

1956年 ( 昭和31 )71歳 
6月弟嘉吉、出版交流代表団の一員として訪中。8月第2回原水禁世界大会参加のため許広平女史を団長とする中国代表団来日。完造は許女史に終始同行し世話にあたった。10月19日北京で開催の魯迅逝去二十周年記念祭に参加。その後上海に行き元内山書店番頭の王宝良と再会。ともに魯迅の墓に詣で、先妻美喜の墓参もすます。この年の3月日中文化交流協会発足。

1959年 ( 昭和34 )74歳
前年からの地方巡回講演の激務がたたり病床に伏す。9月16日中国人民対外文化協会の招きで、病気療養のため真野夫人を同伴して渡中。9月20日脳溢血により北京協和病院で死去。同22日北京で追悼式。10月26日渡中した弟嘉吉夫妻が参席し、上海万国公墓で埋葬式。11月16日東京日比谷公会堂で、日中友好協会主催の日中友好葬行なわれる。翌年9月に自伝『花甲録』が岩波書店より刊行さる。

1963年 ( 昭和38 )
中国から外文出版社代表が来日し日本側の各書店と懇談。内山書店も参加。7月日本語版『北京周報』創刊される。
1965年 ( 昭和40 ) 10月東京内山書店創立30周年を迎える。翌年2月に国際書店より郭沫若の書が届く。
1966年 ( 昭和41) 日中両共産党の決裂によって、日中友好団体、中国関係書店らに分裂騒ぎがおこるが、内山書店は不動。

1968年 ( 昭和43 )
8月現在地の神保町すずらん通りに社屋を新築して移転。

1971年 ( 昭和46 )
国際書店の招待で嘉吉夫妻訪中。上海では魯迅と兄完造夫妻の墓に詣る。

1972年 ( 昭和47)
9月29日、日中国交回復成る。中国語の学習ブーム生じ、新顧客が増す。

1974年 ( 昭和49 )
内山書店を株式会社に改編する ( 社長嘉吉 ) 。

1975年 ( 昭和50 )
竹内好、増田渉、岩波雄二郎ら22名の呼びかけで、10月2日一橋学士会館において「内山書店創立40十年・内山完造生誕90年を祝う会」開催。

1978年 ( 昭和53)
内山書店改編 ( 会長嘉吉、社長に三男籬就任 ) 。この年の8月日中平和友好条約締結。

1979年 ( 昭和54)
11月1日内山完造頌徳碑の除幕式が、郷里岡山県井原市で挙行。翌年11月1日内山完造の胸像が同地に建つ。

1981年 ( 昭和56 )
魯迅生誕百周年記念式典に出席のため、嘉吉夫妻ら訪中。

1983年 ( 昭和58 )
秋『季刊 鄔其山』創刊。

1984年 ( 昭和59) 
8月新ビル建設のため、神保町角の岩波ビル地下1階に仮店舗を構える。11月「内山完造生誕百年記念会」が、郷里井原市で開催。12月30日会長内山嘉吉死去 ( 行年84歳 ) 。

1985年 (昭和60) 
上海で「内山完造生誕百周年記念」行事開催。9月7日完成した新ビルにおいて「内山完造生誕百年・東京内山書店創立50周年」祝賀会挙行。


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